オタク世代論≒オタク階級説 我流オタク総論

オタク第一世代=貴族、オタク第二世代=学者・官僚(=エリート)であるならば、オタク第三世代=庶民・農民、もしくは奴隷だ。
ただし、世代=階級は絶対ではない。第一・第二世代に属するオタクでも年代相応な「キャラ萌え」でしかオタク的会話を出来ない庶民だって居るし、第三世代にだって貴族的にジャンルの区別無く各コンテンツの俯瞰が出来たり、単一ジャンルでなら学者的に語ることが出来たりする人間だって居る。表舞台に立っているか否かは別問題として。
階級差が生まれる原因は生まれ育った環境と、「オタクとしての目覚め」のタイミングではないか。そして後者は前者の強い影響下にある。
金銭的に裕福でオタク的財産に恵まれた家庭に育った子供は、小学校の中〜高学年には自分の遊び・愉しみ方が他の子供と違うことに気付くだろう。既に周りを気にする必要はない、あとは没頭するだけ。元々親自身が与えたものだから理解はされている。第一世代的なオタク貴族の発生過程がこうだとする。
続いて小遣いにはそれなりに恵まれながらも教育偏重型の家庭に育った子供の場合、おそらくクラスの周囲とは小学校の時点で話題が合わなくなってきているであろうが、周囲から自発的に孤立し始めるのは小学高学年〜中学校時代。そして周りが「子供っぽい」と判断して捨てたマンガやアニメ等に傾倒する。成績が良ければ親はどんな趣味でも口は出さない。第二世代的なオタクエリートの発生過程はこう。
最後に、特に教育や生活スタイルにこだわりのない家庭で育った子供の場合、小学高学年〜中学校のクラスでされる音楽やTVドラマの話題に徐々についていけなくなりながらも、そういう仲間と群れながらぱっとしない部活をやって過ごしている子供がそれなりにいる。この層の一部が高等教育に移っても、他の遊び方を覚えずに子供の遊びを続けて行く。親は厭味の一つや小言でも言うかも知れないが、基本的には親自身も大した趣味はなく無関心。第三世代的なオタク庶民・農民・奴隷の発生過程はこうだ。
オタク趣味に選ばれた層と、他の選択肢を排除してオタク趣味を選んだ層、他の選択肢に行けずオタク趣味に逃げ続けた層、これが各階級のアイデンティティ。自分の視点による面白さだけ語る貴族、面白さの理由にごちゃごちゃ理屈をつけて貴族に嫌われるエリート、面白さの理由なんて考えたこともない庶民・農民、もう面白いかどうかさえ分からない奴隷、オタク階級社会かくありなん。
さて、何故今になって自ら「王様」と名乗った人物が第三世代と呼んだ「庶民・農民・奴隷」に絶縁宣言の御触れを出すのか。または特定ジャンルを持ち上げてきた「学者」が、そのジャンルと消費者である「庶民・奴隷」に失望の念を表すのか。答えは「庶民・農民・奴隷」達は王様や学問なんてどうでも良くて、王様や学者が利用した「商人」の売る「商品」こそが、自分達の王国の全てだと思っていて、そのことに王様も学者も気付いてしまったから。
つまり、オタク庶民層にとっては、オタクの精神とか心構えとかオタク文化の教養とか創造とか分析とか発見なんかはどうでも良くて、市場に出回るマンガやアニメやゲームやラノベが常に手元にあれば満足していたのだった。貴族やエリートの上層部は思想や文化の普及にそういう企業を用いたのだけれど、結局のところは失敗してそれらは定着せずに企業にとって便利なマーケティング材料を与えてしまっただけとなってしまった。
さて「王様」は「オタク」に替わって「プチクリ」という新たな国の概念を持ち出しているのだが、これって単純に「企業が作ったキャラクターグッズを漁って喜ぶのをやめて、昔みたいに好きなものの同人誌・グッズを自分達の手で作って楽しもうじゃないか」という原点回帰に過ぎない。もしくは悪意のある見方をすれば「お前らが俺ら貴族とは全然違う人間だってのは分かったけど、せめて俺らの目の届く範囲で田んぼを耕してくれ」という程度のお話だったのではないか。
これは、オタク第一世代の望むものは言わば伝統文化や伝統芸能と化したオタク世界だという捉え方も出来る。そしてそれは「資本主義コンテンツ産業」と、奴らに奪われた農民・奴隷共との戦いである。そんな非常に昔気質な発想の世界だ。「王様」も俺も何処まで本気で言ってるのかは知らないけれど。
更に加えて、この貴族たる第一世代・エリートたる第二世代・彼らに憧れたり信奉したり次なるポジションを狙っていたりする若年オタク・サブカルの面々が、揃って萌えオタを排除したがる理由を考える。
それは、萌えオタが市場に対して隷属的な消費スタイルを肯定している点が、第一にある。そして、彼らの持つ趣向が多数のヌルオタやオタク予備軍に現在の主流として強く影響している点が、第二の理由である。もちろん濃い萌えオタの中にはオタクエリートの影響さながらに現代思想を振り撒きながら、お気に入り作品を分析するような人種も存在する。しかしながら他の萌えオタを牽引している層とは現状では言えない。そして萌えオタの文化が、それ以前のオタクが発見・発展させていった文化と隔絶したかたちでの展開を望んでいる点が、第三の理由だ。キャラクターの記号要素のみにこだわったキャラ偏重の文化は、それまでのオタク文化が組み立ててきた「物語性」や「表現技法」を時に強烈に拒絶する。その拒絶はその他のオタク・サブカルにとって不快感をもよおすものである。
現在、貴族・エリートに育てられた文化は、庶民・農民・奴隷に否定されつつもまだ根強く展開されている。しかし、その内容はキャラクターも含めた記号要素や世界観の複雑化・高度化、もしくはあまり発展的でない焼き直しであるものが多い。明け透けなパロディが増えつつあるのも近年のオタク文化の特長とも言えるだろう。対して庶民・農民・奴隷の萌えオタ文化は、購買力にも支えられ俄然増加傾向にある。しかしながらその一本一本のクオリティに関してははなはだ疑問視せざるを得ない。こちらも記号要素以外に発展は見られない。
結果として、両者とも行き詰まっているのではないかと思えてしまう。おそらく現在居るオタク層を意識した作品の表現内容は、ある意味出尽くしてしまっているのかも知れない。
もしくはオタク側がこれらの文化から一旦距離を置く必要があるのかも知れない。
無論、伝統文化として大事にしていくというのも、一つの手ではあると思う。ただし、その場合は「入り口」をオタクの側で上手に定める必要はあるだろう。継承者が居なくなれば、伝統文化は滅びてしまうから。
 
なお、オタク文化からの距離の置き方の提案者として、『惑星開発委員会*1が個人的には面白い存在だと思っている。9時台のドラマや文学賞受賞者の本などをオタク・サブカル的な人物達が評論するというスタイルは、真の意味で「オタク・サブカル的」だと感じている。また、対岸の一般人の文化が現在どれだけオタク的な想像力に毒されているか、ちょっと考えてみればそうはなっから敬遠することもないんじゃなかろうか。
いや、俺はやらないけどね。
 
もう一つ余計なことを加える。最近「非モテ」や「文化系ニート」や「喪男」等が、第三世代オタク・同世代サブカルやそれを牽引する層によって論じられているが、これはより一般人との距離が接近してしまった「世代」の「周囲環境」における問題だと俺は考えており、オタク論とは一線距離を置くべきではないかと感じている。表現に対する「受容・発信」の問題と、社会に対する「適応・拒絶」の問題は同列ではない。もちろん、これが「世代」の問題である以上一定の回答を示すような「表現作品」を生むことや見出すことを重要視しているのならば、オタクのフィールドでやるのも構わない。ただ、「非モテ」の克服、「文化系ニート」の生き方を模索するのであれば、オタク・サブカルだけではなくてもっと世代全体に視野を広げる必要があるんじゃなかろうか。オタクじゃなくてもモテない奴はいっぱい居るし、サブカルでなくとも妙なプライドに凝り固まりながら社会の底辺這いずり回ってる奴は居る、それだけのことなんだけれど。「妥協」「克服」「逃避」以外の選択肢をの可能性を探るのは面白そうだとは思うが。
でも、下手すりゃ時が解決してくれるんじゃないかなあ、なんて。もしくはカネが。
それより焦るべき時に冷静さを失わずに焦る技術の方が重要です。年齢と人生経験はそれなりに比例していないと、世の中は認めてくれないらしい。
 
脱線しまくり。
いや、どうするオタク文化。伝統文化という方向性でいいのか?それとも萌えオタの市場先導記号文化の先鋭化を目指すのか?どっちも狭く深くだなあ。新規層に逃げられるぞ。
 
参考資料
ゾコラム/『「オタク・イズ・デッド」にまつわるアレコレ』
http://d.hatena.ne.jp/zozo_mix/20060527#1148745190
九尾のネコ鞭/『オタクが死んで非モテが残った。』
http://d.hatena.ne.jp/maroyakasa/20060816#p2