もう一つ持ってるブログがメンテナンス中で

くだらない自虐と鬱に塗れたいつも通りの退廃的日常日記の更新をこっちでしようと思ったが、そう考えているうちに微妙に内容が変容するのでどうでも良くなったのにやっぱ書いてるんじゃねえかよ。
 
はてな非コミュという言葉を知った一年。パッと見は内容をイメージ出来ない言葉の癖して、使い勝手はメチャクチャ幅広いときやがる。そんなにコミュニケーション格差な現代日本社会ですか。コミュニケーションて、言語・文化そのものじゃないかと今ふと思ったんですが、四半世紀近く生きて今更気付くってのも相当に不勉強の極み。じゃあ言語・文化の共有は如何に成されてきたんだろう、と。プレモダン、モダン、ポストモダンの段階に応じて、誰かご教授願いたい。そうすると、共同体が問題なのか。どこまでを、共同体として認識するか。個人、肉親に続く、地域社会や世間を超えて、日本や国際社会。まさにセカイ系。幻想のナショナリズム。どうでもいいけど、プレモダンが近代以前、モダンが現代なら、ポストモダンはどう訳せばいいんだ。次代か。次の世界を夢想しながら、枠の括りはモダン時代のものを流用。ああ、まだ、モダンなのか。書いているうちに鬱な気分が抜けてきた。
フィクションを通じて現実を相対化する眼を持つのが、オタク的なんだな。逆に現実の虚構性に気付く能力というか。ただ、相対化に徹底し過ぎて、外部へのアプローチが後手に回るのかなあ。その外部欲求が希薄になるほど、もしくは強過ぎてギャップに苛まれるほど、妄執に近い固執に走るのかなあ。狭義のオタクは最早、子ども向けにすげかわって登場した「オタク向け」のアニメ・マンガ・ゲーム・ノベルを消費する「オトナ」な人々で、じゃあ「子ども」でなくなった人々が何をそこから生み出すんだろう、と疑問に。ガキに媚びを売れ、てな意味ではないけれど、子どもが支持しないようなサブカルチャーは、既に伝統芸能であり。団塊フォークソングとか。ああ言うのとおんなじ。同好の人間には届くけど、その外側に届きにくい文化性。「子ども」に支持されるから、「オトナ」の語る対象たり得ない「サブカルチャー」なんだよなあ。いや、「子ども」というより「若者」と言うべきかな。しかし、「若者」ってどんな存在なんだ。社会に出るか否かくらいの層か。じゃあ俺は「若者」なのか。「子ども」でもあり「オトナ」でもあるのか。ようわからんな。しかしオタクはある意味でもう「若者」ではないと感じるんだよなあ。消費行動に重きをおいて、社会に組み込まれている存在化しているから、かな。社会における外部者が「若者」か。保護者でも、被保護者でもない。全部、書きながら思いついた事を並べる連想ゲーム。全てにおいて曖昧模糊。
 
とりあえず、気晴らしにはなったので良しとする。