なんとなく

コレがアタマの片隅に引っかかる。
http://d.hatena.ne.jp/arctan/20061111#1163174546
 
社会学も多分、多用されたらパターンがお決まりになっておんなじだろうなあ、用語が変わっても切り口が変わらないという想像をしてしまう、とか些細な事はどうでもいいか。
 
「ブログは結構どうでもいいなー」なんて思い始めているけれども、なんというか何事も「マーケティング」的な「ターゲット層の想定」が無いと、生き残るのが難しい世の中になったんじゃないかなあ、なんて思った。批評もまた商品でした、とか。「大衆」ではない「タコツボ」な人々の文化にとって。
ところが「大衆」が解体しちゃったから、流動的な人々によって時々ジャンル的には大ヒットが舞い込んできて、喜んで「取らぬ狸」を始めたら徐々に飽きて去っていき、ヒット時の幻想だけがタコツボ組のオツムに残る、とか。そして「○○とはなんだったのか?」なんちゃって。
「大衆」が居なくなったって言うのは、まあ最近のJ-POPの売り上げなんかが適当だよね。10年前にはごろごろ存在していたミリオンセラーが、今は数えるほどしかなくなってるとか。または子供の話題には上らなくなってきた「子供向けアニメ」とか。さらには視聴率がどんどん下がってく『紅白歌合戦』とか。大衆だった層があっちへ行ったりこっちへ来たり、口コミ・マスコミ・風まかせ。
ところによって「ジャンル大衆」の発生。マトリョーシカ人形のように階層化されたタコツボの、一番外の縁に住まう人。流動化した人々が覗く、出入り口のバラック街に住まう人。この人たちの選択肢は、飽きたら別のトコロに移るか、頑張って内側へと入り込むか、ズルズルと居続け内側の連中にそこが「中」であると認めさせるか。
 
タコツボに居て向上心を抱えて行動しながら、嗅覚を研ぎ澄ましてチャンスを見つけ次第上手く周辺外部へのリンクを試みる、というスタイルを確立出来たらベストな気がしますが、そんなハイセンスな事が出来る人は結局少ないのでどこまで行ってもタコツボです。本当にありがとうございました。
まあ、常に入口の様子を意識している人が強いのは、はてブなんか見ても思う次第。タコツボの内側で影響力を持つのに必要な力を備えつつも、「何が」「今」「入口付近の人に届き」「どのような言葉で伝えるか」を戦略立てて運用している人・組織が、やっぱり元気が良い世の中であるなあと思ったり思わなかったりどうでも良かったり。
 
という訳で、アニメではハルヒの次は何が来るんだろうと打つ途中で、「何が狂うだろう」と打ちかけた俺が居る。後者の方が合っている気もする。大ヒットはタコツボを狂わせる。であるけれども、その「異端」を如何に取り込むかが、タコツボの維持に必要不可欠な勝負ドコロでもあるんだが。
 
しかし、「自分語り」と言い出すと、それじゃ結局は日記、もしくはチラシの裏。まさに面白さは自分次第。
 
ああ、でもちっとも間違ってねえや「チラシの裏」。誰もがタダでブログを書けるのは、ネット広告サマサマって訳でんな。ほらー、やっぱりマーケティングじゃないかー。
 
支離滅裂。