昨日の日記があまりに適当だったので、仕入れたネタが旬なうちにもう少しちゃんとした記事を書いてみようかと思ったのだが、最近のオタク界隈の記事を漁っているうちに、やっぱり萎えた。オタクとタグつけられたはてブ注目エントリーを見ると、こんな感じ。ここから気になったものをピックアップして、一個一個に「それってただの○○嫌悪で、差異ゲームだよね?」とお楽しみを展開するつもりだったのが、並べて読んだだけで逆に心を折られる。ジャンル批判、世代批判、萌えヲタ批判、腐女子批判、隠れオタ批判……、でも言ってる方もいずれかなんだよなあ。まさに内ゲバ。そして、んな事を言い始めると自分の過去ログまでこっぱずかしくなってきて、一気に消したくなってくるから恐ろしい。まあ、ブログの恥は書き捨て。オタクの90%は理解不能である。しかし、世の中のあるゆるものの90%は理解不能である。タグから見えるオタク像は、まさに統一感が無い。そもそもオタク自体が存在しなかったのかも知れない。という、勘違いSF的解釈、普通はそれを電波と呼ぶんじゃないのか。
そもさん、『おたく』という語自体が差異ゲームから生まれてきたものだからしょうがないのかもなあ、と。でも、正直『新人類』と『おたく』は表裏じゃねえの、と。『オタク』と『サブカル』も表裏だよな。世代の問題やジャンルの問題は、『純化』か『拡大』かを巡ったせめぎ合いだよなあ。
なんだかどうでも良くなってきた。それぞれの立ち位置を、確認しなおした方がいいんじゃないの?もうこれだけイメージが拡散しちゃったのが『オタク』なんだろうから、あとは勝手に自己像補正すればええんちゃう?で、そういう自己像を分かち合える人間とだけ絡めばええんちゃうの?ま、みんなそうやっとんのだろうけど。でもって、「自分とは違う」人たちには距離感保って、陰で笑ってるつもりなのだろうけど。まあ、立ち位置が分かれば、やること見えてくるんじゃねえの?でも他人を嘲笑うとかはやっても一切意味ねえよ?
もうメタメタメタメタしてきてよう分かりません。そんでいて、きっちり金づるとしてシステムに組み込まれてしまってるのだから、どうしようもありません。メシが食えて趣味が満足に出来れば、文化的な生活と言えるんでしょうかね。甚だ疑問だ。文化とは何なんでしょう。最近それが非常に気になって仕方がない。本質的な共有や継承があるのかどうか分からないコレが、文化と呼べるのかどうか……。