スイッチ入っちゃった。まだまだ書くよ。
 
でも、内容が内容なので少しスペースを空けておく。これまでの俺の「オタク」に関する記事で、「はいはい階級主義階級主義」「小宇宙小宇宙」「優越感ゲーム優越感ゲーム」みたいに感じた/考えた人へ、読んでもらいたい意見。おおよそ同意を示した人でも興味があるなら見て構わないけれど、げんなりするかも知れないよ。では。
 
 
 
 

 
俺が何でオタク界隈の雰囲気に逆行するような「階級主義」「権威主義」「純粋主義」的な発言をするのは、実は間違いなくその雰囲気が今後の主流だからで、どうやっても止められないからである。つまり、もう負けは分かっているし、こういう「オタク」であることにこれからは大した価値が無い事も知っているのだ。
けれど、今後も「人より濃い」事のみを目標にして「オタク」をやるヤツが、やっぱり今後も出てくると思うし、中心のないオタク界で「敢えて中心を語ろうとする」連中は、中心の欠けた文化に対するカウンターとしてやはり必要だと思うのだ。
例えば、p_shirokumaさんの以下の記事を読んでみて欲しい。
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20061004/p1
この先どんなにオタク趣味が認められても、顔がそりゃあもう醜くて歳も30後半になっちゃって、会話も吃音が多くし内容も相手と噛み合わない、家電組立工場の平社員だから金も無い、そんでもってどうしようもなく幼女が好きなんてヤツは、やっぱり嫌われると思うのだ。彼がここから感じる劣等感を克服するのに、会話スキルを改善し、顔や体を整形し、性癖まで直すのと、自分と似たような仲間とつるんでその思い入れや知識で尊敬し合うのと、どっちが手っ取り早いか考えてみて欲しい。
そしてそういうヤツらの活動を他のオタクは横目に見て、自らの活動がどのような価値を持つのか判断する際の「相対化」基準として用いるのである。
ああ、ちなみに「そんなヤツ死ねよ」くらいしか思ってないヤツは、もう俺と話が合わないからここで読むのを止めてくれ。
また、kir_royalさんのように内心は「階級」が存在する事にコンプレックスを抱いていて、「階級」内に入るのは躊躇しているけれど、彼が「オタク」だと思った器用な連中にもなれず、現状維持でもがいているオタクは、実際多いと思う。というか、俺自身がそうなのだ。俺も彼とおんなじように、「新作アニメを必死で多数チェックして、2ちゃんの情報も追いかける」という行動を取っているから。
ただ、そちら側に興味があるが躊躇しているうちにだんだんとオタク趣味から離れてしまう可能性は、どんなにオタク趣味がカミングアウトしやすくなったとしてもほぼ絶対ではないか。再三言うが、生活がより社会的になるにつれ、オタク趣味というものは距離感を取らざるを得ない「活動」なのだ。
「階級」は「組織」によって成立している。別に大きな「オタク国家」が存在する訳ではない。これがもう幻想なのは百も承知だ。言いたいのは、小さな「サークル」でもそれは「組織」であり、「分業」が為されればそこに自然と「階級」は発生する、という事だ。例えば、仕切れるヤツ、金の管理をするヤツ、外部との連絡をするヤツ、人を集めるヤツ、こまごまとした雑用を与えられるヤツ。仕事の重要度に応じて、その人物の「社会影響力」は決まってくる。これが「階級」だ。そして、大きな「社会」ほど交換可能な雑用人間が多くなり、小さな「社会」ほどそれぞれの責任や役割が強固に定まってゆく。そう、「組織」は「社会」だ。
「組織(社会)」に属して初めて「階級」は得られる。属さないからこそ、自分が濃いのかヌルいのかも相対的にさえ分からないし、自分の嗜好が果たして本流なのか異端なのかさえも分からない。ある種の劣等感に駆られているから、そこは何となく気になってしまう。そういうのを感じない奴らは、始めから周りと価値観が合う合わないなんて気にしない。「組織(社会)」に所属するという事は、相対基準を得るという事だ。他人と比較することで、結局自分は理解出来るのだ。
ここまで俺は再三「組織」と言うものを強調して発言している。north2015さんの回答にあたる一昨日の記事でも、俺はつい「「組織」や「ノウハウ」が継承されるべき」と書いている。ここまで俺が「組織」というものに固執するのは理由がある。
先ほども「組織」=「社会」と言った。そして、人間は「他者との関係によって自己を見出す『社会的動物』である」という社会学の動機にあたる概念を、俺は支持している。「社会」は全ての「人間」が例外なく属していた最も小さい「家庭」から始まり、最も大きな「国家」や「人類」という範疇までを含む。人間の活動において「組織」=「社会」=「共同体」は、欠かせない存在なのである。「完全に孤独で自給自足出来る環境」に居ない限りは、ヒトは「社会」に属しているのだ。
そして、「社会」と言うものが「他者との関係性」で成り立っている限り、「社会の要求する態度に適応する」という技術は必要不可欠なものである。そして「社会の要求する態度に適応する」という技術や意識は、己が過去に属していた共同体から別の共同体へと移り住む場合にも、そこに「普遍的な人間性」が存在する限り再利用可能な道具でもあるのだ。要するに、「社会のルールを覚えて守らなければならない」のは、いかなる社会に属する場合でも必須であるのだ。そこには「コミュニケーションの方法」なども含まれる。
つまり階級的な「オタク組織」で得た社会適用技術は、使いようによってはその他の「階級的組織」で有効に機能するのである。そして、現在の日本で生活する上でほぼ必ず関わらなければならない「階級的組織」として、会社や公共団体などの「勤め先」があるのだ。何故なら、我々は現在「資本主義」というまさに「モダン社会」そのものなシステムの上で生活を営んでいるからである。
俺がトラックバック先で読んだ「階級社会」批判は、非常に「ポストモダン」的な視点に基づくもののように感じられた。特定の価値観に縛り付けられる必要は無い、という主張だ。その主張は「ポストモダン」を浸透させる者の立場としては正しい。しかし俺は、そこに「ポストモダンこそこれからの真理だ」と押し付けるような「ポストモダニスト」の「非ポストモダン性」を垣間見た気がして、嫌悪を催すのである。
それは「進化こそ絶対だ」「進歩・発展は善だ」というような、非常に「社会ダーウィニズム」的な発想のように見える。そしてこの「社会ダーウィニズム」こそが、モダン社会の帝国主義民族主義社会主義や資本主義などのあらゆる主義思想を「正当化」させてきた、まさに「モダン思想」そのものではないか。そのような態度は果たして「ポストモダン的」なのか。彼ら自身が「ポストモダン思想」という学問的権威に寄り添っていて、「階級主義」「権威主義」を自意識に孕んでいやしないのだろうか。
そもそも何故オタク界が「ポストモダン」的な存在として考えられたのかを、考え直してみて欲しい。オタク界は、メイン・カルチャーやハイ・カルチャーに対するアンチテーゼとして発生したはずのカウンター・カルチャーやサブ・カルチャーが、権威化し固定化し分派化していく光景が社会のいたるところで起こった、そういう時代を尻目に生まれたのである。そして、その後にオタク界にも「権威」は発生したがそれに影響を受けない層が多く、自分自身の価値基準を主眼に置いた人々が存在したことから「ポストモダン的」存在として紹介されたのだ。そして考えるべきなのが、あくまで「カルチャー」という領域から「ポストモダン」が見出されたという点だ。
「カルチャー」の世界からそれが生じたのは、それまで「経済力」や「社会的地位」で制限されていた文化へのアクセスがある時期より容易になったからに他ならない。何がそれをもたらしたのかと言うと、ぶっちゃければそれは「資本主義」の効能だ。全てのものを金銭的に「商品価値」を定めて提供するシステム、そして先進国の国民生活水準を大いに引き上げた政治体制。つまり「ポストモダン」は平均的な先進国民の、一定水準以上に引き上げられた生活から生まれた。
ポストモダン社会の価値観は、ぶっちゃけ「なんでもあり」だ。「ウィーン・フィル・ハーモニー交響楽団」を生で聴いて大声で「うんこー、金返せー」と発言するのも、「うんこ」を生理学・文化人類学・経済学などを横断しつつ実物を目の前にしながらその「重要性」と「素晴らしさ」を20時間かけて語るのも、全てありなのである。そういう社会ではどのようなヒトが住み易いのかというと、きっと周りの人間をあまり意識しない「マイペース」なんだろうと思う。だから逆に周りを意識し易いタイプの人間には、より周りが「ポストモダン的」な人間になればなるほど、混乱しストレスを感じるのではないかと思う。そういう人たちは、自分と同じような人たちを知ると安心するだろう。けれど結局自己主張の仕方はみんな分からなくて、なんとなくみんなと同じ意見の方に無自覚へ進んでしまうんじゃなかろうか。
で、近年のインターネット社会こそまさにこれで、我の強いマイペースな奴が自己主張ガンガンかましている半面で、みんなで一気に同じ意見に飛び乗って無自覚な共同体幻想で喜んでいる連中が群れているように、俺には見える。さらに言えばそういう全体像の見えない世界の中で、情報を上手くかき集めて自分の主義主張の強化に必要な形へと整形し、さらに必要とあらばその分野で主張の強い奴を「召喚」し、そして反対意見を数で圧倒するために群れた連中を「啓蒙」する、そういう能力に優れた奴のみが本当の利益を得ているようにも感じる。
この「情報戦」のために、ある意味では「権威」に存在理由は残されている。結局、「ポストモダニスト」が「学問的権威」の威を借るのもこういう事なのだ。ところがこいつらは自分にとって不要な材料になると、途端に手のひら返して去って行く。むしろそれにすがる連中を「古い連中」だと嘲るのである。彼らは「ポストモダン」の優位性を叫びながら、「ポストモダンに適応できない人種が<敢えてモダン/プレモダンを選択する>というポストモダン性」に気付いていない。「権威」になるしか「劣等感」を克服出来ない人種が居るとか、「群れ」なければ「自分」を発見できない人間が居るとか、無意味な「類型化」を「自力で情報を収集出来ず、相対化出来ず、判断を下せない」という事情によって支持している人々が居るとか、そういう想像力が働かないのだ。または、そんな人間を認めないのかも知れない。だが、再度言う。その態度は「ポストモダン」的なのか?
 
最終的に俺が今までの「オタク」言及記事で言いたかったのは、俺自身と同じ「今のオタク界」について行くのに必死なだけで「社会性」も「専門性」も身につけてない同族に対する、「突き進むか/後退するか、それだけは考えろ。現状維持だけは絶対にダメだ!」というカツ入れなのだ。そのような視点もあって「第3世代バッシング」をしていたのだ。結局、我々みたいな層はこのままうかうかしていると、「モダン主義者」には相変わらず馬鹿にされ、「ポストモダン」な人種には今後出し抜かれるばかりなのだ。だって「社会」によるバックアップも無ければ、自分自身による自己肯定も出来ないのだから。以前は終身雇用制度などで、使われる立場に居ることで「組織」のメリットを得る、言い換えれば「組織」を使う事が出来た。そういう使い方をするために、「労働組合」のような内部圧力組織もあった。だが、我々の世代に与えれるのはそういうものではない。「能力」を備えていなければ、労働力と対価の賃金しか得ることが出来ない。誰の思惑に乗っているのかさえ分からぬまま、消耗し朽ちていく可能性もあり得ない話ではない。
現在、趣味の世界がどんなに「ポストモダン的」であろうとも、生活をする社会はまだまだ「モダン的」だ。「組織」に身を置けば、どのような人間がどのような理屈で動いているか「観察」する機会を得られる。以前に書いた「空気を読む」話だ。誰が「空気」を作っているのか、変えたり整えたりしているのか、ひたすら従順に読んでる奴はどんな調子なのか。順に言い換えていけば、「天才」「秀才」「凡才」だ。もしくは「カリスマ」「管理者」「ヒラ」。それぞれに思惑がある。天才は自分の発見・目標をドカーンと持ってくる。秀才がそれを組織全体で扱いやすい形に整合し、修正する。凡才は彼らに提供可能な労力を与え、報酬を得る。しかしその裏ではそれぞれの「自分自身」に関わる思惑が働いている場合もある。天才はとにかくそれをやりたいと考えていて、ぶっちゃけ他の連中などついて来なければ縁を切るつもり満々だ。秀才は何とか自分の意見を修正に加えながら、冷酷に組織人員の使用法について判断を下す。ヒラは何とか自分の嫌な仕事は避けて、上がりだけはきっちりもらおうと思っている。そういうゲームなのだ。「組織」における「空気」のやり取りは。
立ちすくんでいるオタクや文科系ニートと言う連中は、「秀才」にとって良いカモなのだ。なんせ、話の裏が読めない。本質的には自分のやりたい事が無いから、上手く言い包めれば楽にこき使えて簡単に捨てられる。ここで言う「秀才」が、実は「階級主義者」だったり「情報操作者」だったりする。
結局、こういう奴らにいいおもちゃにされない為に、もう少し我々の世代は「組織」に加わって「人間」を見る必要があると考える。共同体幻想にとりつかれていたからこそ、本物の共同体がどのように回っているのかを体感しなければならない。そして周りの「自己主張」の技術、「保身」の技術を、上手く盗まなければならない。組織においてある程度でも地位が欲しいなら、自分が他の人よりちょっと優れる点を見つけ、伸ばさなければならない。凡才なクセして自分の長所・短所を把握していない人間など、今やどんな「組織」でも使い捨て扱いだ。自身の「劣等感」問題を解決するには、結局自分自身で試行錯誤するしかない。
自分にとって居心地のいい場所は、自分から動かなければ見つからない。そして「オタク」と名乗ってしまう以上、その言葉にある居心地の良さを感じるのも事実。だが、この先もずっと居心地が良いとは限らない。むしろ少々座りの悪い場所へ行った方が、後々は慣れて安心するかもしれない。それは「階級社会的オタク」の世界かも知れないし、「ゲーオタ」と言っても合コンで話し掛けてくれる女の子が実は存在する世界かも知れない。
結局、これから来る社会は「どんな価値観も受け入れられる社会」ではなく「どんな価値観も自分で選び取らなければならない社会」なのである。それが出来ない人間は消費されるだけだ。だから、自分の進むべき方向に悩んでいる人こそ、積極的に動き視野を広げなければならないのだ。最も自分に合いそうな場所を。
そして、やっぱり型通りな「オタク」としか言いようの無い奴の為に、型通りの「オタク」を一時的に引き継ぐ人間が居てもいいのだ。というか、旧態の文化も保存されてこそ、真の多様性と言えるのではないか。
だから俺は敢えて声高に「階級社会」を肯定する。入れと勧める。
だが、もし俺が勧めて入ってきた連中の離れる時が来ても、俺は愚痴はこぼすだろうけど文句をつけるつもりは無い。まあ、先に俺が居ない可能性もある訳だ。
 
あー、でもやっぱ、みんな自己批判しろ。自論を総括しろ。ビリーブできねえ。